自己肯定から来た考え。
人間、なんでも自己責任だという。
もし、例えば、仮にギャンブルして大当たりする人がいるとして、賭けるかかけようと思っている。
その人は周りからギャンブルすることに、批判されたり、文句言われたり、ヤジを飛ばされたりして、ちょうど掛けるのをやめてしまった。
そして、なんと、残念なことに、その賭けようとしていたギャンブルは大当たりしてしまった場合。
その人は、周りの批判や、文句やヤジに責任を負えるだろうか?
また、その、周りの言った人は、残念だったことを補償してくれるだろうか? そんなことしないだろう。
だからやっぱり周りからの声のせいにはできない。 自己責任だ。
周りからの声で判断が揺らいでの結果でも、周りからの影響のせいには言えない。
ということは、周りの声の影響を受けることは、そのせいにはできないんだから、受けるのは無意味。
人間には認められたいという欲があるという。
承認欲求。
認められたいから、人の評価を気にするのではないか?
私は評価なんかめっちゃ意識する。いつも意識し過ぎて浮き沈みするタイプ。
がんばって最後まで答えるまでも強くもないが。
まぁしかし、あるのはあるので、それが、承認欲求が災いの元だと思った。(達成しない中途半端だから苦しいのかな?)
で、評価を気にするから、周りの声が気になるのだが、その間接的な周りの声は、先ほど言った通り、気にしたって責任は取ってくれない。
承認欲求、いらないと思ったのは、理由は・・・
承認欲求、認められたい欲求、、
認められたいから人の声気になる。
人の声は、責任取らないくせに判断揺らがす。
失敗する。
だから、承認欲求は邪魔だ。
承認欲求捨てろ。
と思った。